谷川俊太郎「無口」
谷川俊太郎『夜のミッキーマウス』(新潮文庫、2006年)pp. 56-58より。
無口
単純に暮らしている複雑なヒト
朝は七時に起きてピーナッツバタをぬったパンを食べ
平静な自分を皮肉な目で眺めて豚に餌をやり
足元のぬかるみを自分のからだのように慈しみ
机に向かって(鬱の友人に)投函しない手紙を書く
自己満足のかけらもなく自分を肯定して
意識下に埋葬されている母親のためにスミレを摘み
迷路はほぐしてしまえば一本道だから迷うのは愚かだと
明晰な古今東西の誌の織物を身にまとって
愛する者を憎みにのこのこ出かけて行く
話の種は尽きないけれど人前では無口
昼は多分そこらの街角でかけうどん一杯
どうしてどうしてと問いかける子どもは大の苦手
匂いと味とかすかな物音と手触りから成る世界に生きて
意味はどうすりゃいいんだいと困ったふり
欅が風に揺れていて雲がぽっかり浮かんでいて
なにかと言うと煙草を一服
もちろん何ひとつしないのが一番の贅沢だが
好きな枕を手に入れるためには働かなきゃなんない
鼻歌はいつもうろ覚えのオーバーザレインボウ
永遠も無限も人間の尺度にあらずと心得て
恋人の心理を小数点三桁まで憶測するのが喜び
夜はゴーヤで安い赤ワイン(デザートには多分バナナ)
風呂と布団にスキンシップの極意を極め
あとは日々の細部にビッグバンに連なるものを探すだけ